2019年12月17日火曜日

長年思い続けてきたこと


「山の端の向こうへ」 


信州の山の谷間の生まれである。昭和30年に生を受けた。

 

古い百姓屋はおそらく江戸の末期に建てられた家で、家に窓ガラスは一枚もなく、障子の外は雨戸だった。便所は外付けだった。風呂も室内の暖かいところにはなく、建屋の隅の洗い物をする池の前に小屋掛けをしたようなところにあり、毎日はたつものではなかった。

 

生まれてからの最初の記憶。それはお蚕棚の間に置かれた藁で編んだ籠の中に敷いた布団に寝かされ、昼寝から目が覚めた時の光景だ。蚕室は北向きの涼しい部屋で、開け放たれた戸口からは涼しい風が吹き抜けている。お昼寝から目覚めた目に煤けた黒い天井や梁が映り、耳元にザワザワザワと蚕が桑を食む音が聞こえている。

 

その頃、父は会社に勤めてはいたが、祖父、祖母、母で4反ほどの農地を耕していた。祖父は明治生まれでその農地を礎に三男三女を育てた。農地は一塊だが傾斜地にあり4段に分かれ、田で米を作り、法面を桑畑にして養蚕をした。僅かな農地に依拠し、現金収入を上げるには養蚕は格好の手段だった。もちろんそれで十分だということではなく、祖父は冬の風土産業だった寒天作りの営業や天草の買い付けを副業とし一年のうちかなりの日数を遠くに旅していた。だから農作業の多くは祖母やそれなりに育った子供達が担っていた。母は当たり前のようにそうした家に嫁いでいた。

 

小学校に入学する春、父は私を東京見物に連れていった。家の習わしだと聞かされた。当然見物にいった東京タワーや国会議事堂よりも、その頃まだ蒸気機関車が新宿まで走っていて、車内に染み付いた石炭の煙の臭いと背面が鉛直のボックスシートの千歳緑の布の肌触りのほうが何故か強く記憶にある。6歳のまだ物心がついたとは言えない少年が初めて山の谷間を出て都会に接した出来事だった。

 

父の会社勤めは栄進を求めたこともあり広域的なものになり、小学2年になる春、転校をした。農作業のない親子2世代だけの家族の暮らし。場所の違いではなく家庭の風景が変わった。社宅だが鉄筋コンクリートのアパートに住んだ。それでもまだ山の谷間の中にいた。

 

「綿雲うかぶ四阿の山は緑に春ふかし、、、 」 小学校の校歌である。家からも学校からも東の方角に四阿山がよく見え、太陽はそこを中心として上った。物心が着き、自我が芽生え、少しずつ世の中で起こっていることに目がいくようになる少年時代。ビートルズの楽曲も人類初の月面着陸のニュースも谷間にやってきて、いつも谷の底からそれらがやってくる四阿山の三角の斜面の上の空を見上げるようにして8年を過ごした。そしてこれから進んでいく世界はその山の端の向こうの空の彼方にあると思うようになっていった。

 

 父の仕事はさらに広がりを見せ県外移動になり、単身もう一度生まれ故郷に戻ることになった。高校に通う若者が明治生まれの祖父母と一屋根の下で暮らすのは辛くもあり寂しかったが嫌ではなかった。山の端の向こうの東の空を見上げることに変わりはなかった。今度は東の空に下、八ヶ岳の一番南の峰が長く裾野を引いていた。無邪気な少年の時には夢は無限だと思えたとしても、青年にとって可能性は無限ではないと分別が付くようになっていた。しかし体力と挑戦への意欲は泉のように湧いてきて、力不足だったとしても一人でやってみたい、力試しをしたいと願うようになっていた。

 

 山の端を越えて谷間から出たものの、大都会は秩序などなく、大学は何も与えてくれはしなかった。既成の枠組みや価値観を押し着せられたら反発するくせに、自らは生き方や価値の座標軸を作れずに漂流をしていた。漂流は未知のものや旅への憧れを余計に掻き立てる。力も金もないのに飛び出すように海の外へ出た。

 

パキスタン北西辺境地域。二人パーティーの機動力を生かして軽快に行動し、6千メートル位の峰に立ちたいと目論んではいた。しかし甘くはなかった。困難な言語コミュニケーション。ウルドゥー語やパシュトゥー語はもちろんのこと、何とかなるとかいかぶっていた英語も通用せず、旅をコントロールできなかった。想像以上の高温と乾燥、食料不足。本来の活動をする前に激しく消耗し、打ちのめされた。麓では現地食を当てにしていたが人々の暮らしは厳しく、貧しく、小麦粉と岩塩だけで暮らしているのではと思われた。小手試しに入った5千メートル少しの峰がある谷ではテントサイトに夏の放牧で山羊を追った少年が現れ、足元をみるとほとんど裸足同然だった。自分達のやっていることはほとんどままごと同然だった。

 

 インダス川沿いの道路が通行できず長いフライト待ちの末、戻ったラワルピンディーは始まったモンスーンの雨で泥のだらけの街になっていた。パーティーを解散し、相棒は西に向かった。帰国のため、再度国境を越えインドへ戻らなればならない。ラホールに向かってアジアハイウエーを疾走するバスの車窓から水浸しになった平原を眺めていると、一つの歌が口を衝いて出て来るのだった。

 

「白い雲は 流れ流れて 今日も夢はもつれ わびしくゆれる 悲しく悲しくて とてもやりきれない この限りないむなしさの 救いはないだろうか」

 

思い上がった、力の無い、若いだけが取柄の人間を一人前の人間にしてくれたのは就職したあとの会社、組織、仕事だった。仕事を通して触れる世界にはリアリティーがあった。単純作業であっても判断や思考の要る事柄であっても何よりも没頭できるのが心地よかった。学びや研鑽の場も豊富で、意味を感じて取り組むことができればそれは力の蓄積になる。それまで知らなかった世界も海の向こうの世界も仕事という規範に伴って目の前に出現するようになった。漂流は終わっていた。

 

誰もが生まれ育った土地と家と家族の風景を持ち、それを原風景として成長し大人になって生きる。原風景は取り去り難い糸になって人生に織り込まれている。人生を峠越えに例えれば登り坂がそのピークに達し峠の下り坂に差しかかる頃、多くの場合、その原風景への回帰が始まる。私にとってはその向こうには何があると見上げた山の端を越えて今度は谷間へ戻ることに間違いはないようだ。それがきちんと叶えられるようにと強く意識をしている。

 

人口や社会機能の大都市圏への集中が止まらず、それを修正し、地方を再生する政策が繰り返し打ち出されて久しい。経済の成長期にほんとうに多くの人々が地方を出て大都市にやってきた。その人々の持つ原風景は色褪せていないと思いたい。政策が実行を上げるには人々が各々の原風景にこだわる心の在り方も必要だと思う。

 

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人が長く愛唱する言葉にはどんな時代をも貫く真実が語られている。

 

カール・ブッセ作、上田敏訳の「山のあなた」である。

 

山のあなたの空遠く 幸住むとひとのいふ

噫 われひとと尋めゆきて 涙さしぐみかへりきぬ

山のあなたになほ遠く 幸住むとひとのいふ




 

1 件のコメント:

  1. とても良い文章ですね。読んで感動しました。今年もお世話になりました。来年もお願いします。牛田

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